「御書」の言葉から
学会員にとっては、クリスチャンにとってのバイブルに当たるものだと思います。
私自身は学会員でないどころか、むしろアンチ創価学会の人間ですが、日蓮という人間を誹謗中傷する気持ちはほとんどありません。また、法華経という仏陀最後の教説に対しては深い愛着を持っています。
日蓮上人の生き方や言葉は、時には激越なものとして目に映ることもありますが(見たわけではありませんが)、それが日蓮という方に対する評価に影響を及ぼすことは特にありません。どちらかといえば個性の問題だと思っています。
今日は友人の兄に当たる人の仕事場に用事があって寄ったのですが、そこに去年のカレンダーが掲げてあり、よく見ると「御書」から抜粋した日蓮上人の言葉が書いてありました。
その中で心に迫るよい言葉がありましたので、三つ紹介したいと思います。
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心の師とはなるとも
心を師とせざれ
兄弟抄(御書1088貢)
悪は多けれども一善にかつ事なし
異体同心事(御書463貢)
法自ら弘まらず
人法を弘むる故に
人法ともに尊し
百六箇抄(御書856貢)
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特に二番目の「悪は多けれども一善にかつ事なし」はなかなか力のある言葉だと思います。
意味としては、
世の中には様々な悪がはびこっているけれど、いくら悪がその勢力を結集しても、ほんの一片の「善」にすら及ばない、ということを言っているのだと思います。
要するに「正義は必ず勝つ」ということでしょうか。
悪者と戦っている人にとっては相当勇気づけられる言葉ではないかと思います。
最初の言葉に出てくる「心」は、おそらく移ろいやすく乱れやすい人間の感情を指しているものと思います。
心理学でいう超自我(スーパーエゴ)と対置されるところの「自我」の部分だと思います。
そんなものの要請に従って行動してはならぬ、ということでしょうか。
今日はその友人(学会員)の練習にも少し付き合いました。
どこかで「開目抄」(御書の一部)の講義をするということでした。
これは、佐渡への流罪となった日蓮が、動揺したり態度を翻したりする弟子たちに向けて書いたものです。
ある意味では、創価学会の「創価学会らしさ」を生み出す源泉ともいえる部分かと思います。
その「開目抄」の一番最後に当たる部分を、思い切って紹介したいと思います。
何度も言いますが私は創価学会が嫌いです。嫌いなところはたくさんありますが、なかでも学会員であることを隠す人が多いというところが嫌いです。
「命を懸けて信心する」などと言いながら、その信じているものを恥じて隠すなんて偽善もいいところです。
日蓮は、法華経を説くが故に受けるそしりは「恥ではない」とそれこそ何度も言っています。今紹介しようとしている「開目抄」の一番最後で訴えているのもそのことに他なりません。
「…… 皆法華経のゆへなればはじ(恥)ならず。愚人にほめ(讃)られたるは第一のはぢなり。」
と訴えています。
これは噂に過ぎませんが、SMAPは五人とも学会員だとか。
特に草薙さんはほぼ間違いないようです。
これだけ有名なのにどうして一般の人に伝わらないのでしょう。
特に隠そうとしない限りは、自然に伝わるはずではないでしょうか?
香取信吾さん以外の四人は在日朝鮮人だなんていう噂もありますが、それとこれとはちょっと次元が違います。
恥を受けようと、芸能界から追放されようと、尊敬する人は?と聞かれて「日蓮大聖人」とか「池田名誉会長」と答えるのが、
まさに日蓮の求める信徒の姿ではないでしょうか?
池田大作氏は、私ははっきり言って毛嫌いしていますし、その著書に対しても不誠実なものを感じます。
ただ、自分が創価学会員であることを隠そうとしていないという一点に限って言えば、大変立派です。
友達を失っても、仕事をクビになっても、自ら信ずるところのものを恥とせずに堂々と公言するというのが、
正しい宗教であることの一つの証であると思います。
聞かれてもいないのにペラペラ喋る必要はないのかもしれませんが、そうでない限りは、普通に公表するべきです。
自分への戒めとしても、ここで強く訴えたいと思います。
さて、最後にその「開目抄」の最後の部分を引用します。
難しい用語が多いですが、大体の雰囲気をつかめるかと思います。
要は、
法華経を護持し、布教していくにあたっては、様々な「難」を受けるだろうが、それは起こるべくして起こるのであるから、ひるむことなくそのまま進め、ということです。
長い文章にお付き合いくださりありがとうございました。
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無道心の者生死をはなるゝ事はなきなり。教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給ひ、天台大師の南北並びに得一に三寸の舌もて五尺の身をたつ(断)と、伝教大師の南京の諸人に最澄未だ唐都を見ず等といわれさせ給し、皆法華経のゆへなればはじ(恥)ならず。愚人にほめ(讃)られたるは第一のはぢなり。日蓮が御勘気をかほれ(蒙)ば天台、真言の法師等悦ばしくやをもうらん。かつ(且)はむざん(無慙)なり、かつはきくわい(奇怪)なり。
夫釈尊は裟婆に入り、羅什は秦に入り、伝教は尸那に入り、提婆、師子は身をすつ、薬王は臂をやく、上宮は手の皮をはぐ、釈迦菩薩は肉をうる、楽法は骨を筆とす。天台の云く「適時而已」等云云。仏法は時による(依)べし。日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大に悦ばし。
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