名言で考える「本当の優しさ」
本当の優しさとは何か。
いくつかの名言とともに考えてみたい。
★★★
優しさとは、耳の聞こえない者も聞くことができ、目の見えない者も見ることができる言葉なんだ。
マーク・トウェイン
★★★
言葉というのは、そもそも感情や思考を誰かに伝える必要があって発するもの。
つまり、すべての言葉には「伝える」という目的がある。
逆に考えれば、思考や感情や事実を伝えるものは言葉の仲間ということになる。
そして、目が見えなくても耳が聞こえなくても伝わるなら、
もうそれは、文字や音で発せられて伝わる言葉以上に、もっともっと言葉らしい言葉。
そんなことをマーク・トウェインが言いたかったのかどうかは分からないけど、
そんな風にも感じさせるほどに深みのある言葉だと思う。
★★★
やさしい言葉一つで冬中暖かい
日本のことわざ
★★★
元気を失って落ち込んでいる時、
それに寄り添うような優しい言葉をかけられて、
心がほんとにホワッと暖められるような感覚を覚えた経験がある。
なにかしてやるでもなく、どうしたのかとほじくるでもなく、
ただ遠くで見守ってるとかでもなく、
ただただ、
わたしはここにいるよ、元気出せ、
ってな感じの言葉だ。
できるようでなかなか難しいと思う。
それができるような人間になりたいものだ。
★★★
空腹の時、1個のパンを分け与えられる優しさが、本当の優しさなのでしょう。
自分の食事が約束された中での優しさというのは、
やらないよりはいいでしょうが、自分が満足するための、
少し偽善が入った優しさなんでしょうね。
島田 紳助
★★★
島田紳助さんの言葉です。
どの局面で発した言葉かは分かりませんが、
なかなか鋭いと感じる。
前半の1行については、
素直に共感できるところ。
そのとおりだと思う。
ただ、似たような言葉は他にも存在すると思われる。
考えさせられるのは後半の3行だ。
「自分が満足するための、
少し偽善が入った優しさ」
とはどういうことか。
優しいといわれるような行為を自分がしたという満足感はありがちだけれど、
でもそれは本当の優しさには伴わないものであると、そう紳助さんは言いたいのだろうか。
まあ、これはそうなのかもしれない。
よく、小説や漫画やドラマで、
人助けをして相手に感謝されたら「当然のことをしたまで」と返す下りがある。
それと同じで、本当の優しさを実行している人において「良い事」をしているという意識が殆どないということは十分に有り得る。
良い悪いの意識がそもそもなく、内側からほとばしる愛情のままに何かをするなら、
そこに自己満足感の生じる余地はないのかも。
そして更に紳助さんは、
本当でない優しさには偽善が伴う、という。
言い換えれば、
完全ではない優しさには偽善が伴うということだ。
あくまで、優しさは優しさであり、
プラスの評価を受けるべき何かではあると思われるが、
偽善という不純物が入った優しさであることは自覚しておけよ、ということか。
偽善とは、本心ではない上辺だけの善行のことをいうから、
偽善が入った優しさとは、
形だけ、言葉だけの優しさであって、
それに見合うだけの心がそこに十分にはないということになる。
これもありがちといえばありがちだろう。
ただ、偽善が入った優しさであっても、
何の優しさもないよりはまだましでしょう。
飢えていたら、
食品添加物まみれのパンでも、ないよりはマシということだ。
だから、偽善が混じるぐらいなら優しくしないほうがまだよいと考える必要はないと思う。
紳助さんがいいたいのは、人に優しくするのはよいが、
それは必ずしも純粋でも完全でもないという自覚を持てということなのだろう。
その自覚を持つようにすれば、自己満足感も感謝を求める気持ちも起こりにくいし、
結果として、本当の優しさに近づいていけるのかもしれない。
色々と考えさせられる言葉である。
紳助さん、良い言葉を残してくれて有難う。