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善の中の悪  菜根譚から

「菜根譚」からの名言です。
 

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 悪を為して
 人の知らんことを恐るるは、
 悪中なお善路あり。

 善を為して
 人の知らんことを急にするは、
 善、即ちこれ悪根なり

           洪応明「菜根譚」

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洪応明という人は中国の明の時代の人です。明と言われてもピンとこないかもしれませんが、西暦で言うと1368年から1636年までとされています。「菜根譚」という全二巻の本が書かれたのはその明という時代の終わり頃にあたるそうです。

「菜根譚」は「さいこんたん」と読み、処世哲学の書として多くの人に読まれてきました。名前を聞いたことのある人も多いと思います。

さて、
言葉の意味ですが、前半部分を軽く説明しますと、

悪い事をしてしまった場合、あるいは悪事にすっかりはまってしまった場合であっても、その悪事が人に発覚することを恐れるような感情が残っている限り、その人には良心がしっかりと残っており、善へと向かう可能性が十分にある、というような意味です。


後半ですが、これはなかなか耳が痛い言葉です。

善い事をした場合に、あるいは日頃から善い事をしている人間において、その善い事を早く周りの人に知ってほしい、評価してほしい、などという気持ちが生じるのであれば、その善い事にはまさに悪が根差しているのであり、悪へ通じる道が開かれている、というような意味です。

どちらの悪がより責めを受けるべき悪でしょうか?

一般的には、前者の悪でしょう。いくら発覚を恐れる気持ちがあっても悪をなしたことには変わりないのですから。

ところが、例えば聖書などではまさに逆のことが説かれます。

自分が罪を犯した事を苦しみ、後悔し、懺悔し、自分を罪責の多い者と認める者が天国に迎えられ、自分は人より善人であるなどと密かに考えているような人は天国に入れない、と説かれます。

つまり悪事そのものの大小より、悪事に対する心の向きを重要視するわけですが、決して「悪事の大小は問題じゃない」ということではないと思います。


私は聖書の説くところの基準を支持するものですが、この社会がそのままその基準を受け入れることはおそらく不可能でしょう。

人の心の中なんて、外からは分かりませんから。
犯罪を犯す危険性が高いとか勝手に決め付けられて刑務所に入れられてしまう世の中なんて実に恐ろしいです。


話がややずれてしまいましたが、
なにか善い事をした後に、その事を早く知ってほしいとばかり思う人間ではなく、誰にも知られなくてよい、むしろ誰にも知られないほうがよいと思える人間になれたらなあ、と思います。




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