笑いはない方がよいのか…?
今年の七夕に知り合いに赤ちゃんが生まれて、何度かあやしたり、おむつ替えたり、ミルクをあげたりした(もちろん哺乳瓶で)。
生まれて1~2ヶ月だと泣いたり、「アー」とか「エー」とか言ったりすることはあっても、笑うということはそんなにないようであります。
ところが4ヶ月経とうとしている近頃は、もう笑ったりするという。
人の感情は喜怒哀楽などと言われるけれど、
仮に「泣くこと」を「哀」とするならば、
笑うことは「楽」に当たるでしょうか。
そうすると、まず「哀」が始まり、
次に「楽」が続き、
しばらく経って「怒」や「喜」となりましょうか。
これだけ聞くと別になんということもないのですが、
次にニーチェの言葉を聞いてほしい。
☆☆☆
人間だけがこの世で苦しむ。
そこで、笑いを発明せざるを得なかった。
ニーチェ「権力への意志」より
☆☆☆
これをごく単純に当てはめて、
かつ、やや誇張しますと、
赤ん坊は生まれてきてすぐに「哀」を体験し、そして泣く。そこでそれを乗り越えるために本能的に「楽」を作り出そうとし、笑う。
考えすぎですね。
ただ、分割を始めた受精卵が母親のお腹の中で人間の形になっていく過程が、何億年という生物の進化の歴史を象徴的に表現している(つまり似ている)という事実を思い起こすと、
(人類発祥から現在に至る過程で人間が「笑い」を発明したというニーチェの主張が仮に正しいとした場合でありますが、)
太古の昔から現在までの笑いの発明の過程が赤ちゃんの行動の中に象徴的に表現されるということはあり得るかもしれない、とふと思ったりします。
なんにせよ、ニーチェは「笑い」を否定的に捉えているということになりそうです。やむを得ず、仕方なく発明したと主張するわけですから。
現代においては「笑いの効用」などといって、どちらかと言えば肯定的に捉えられていると思います。
治る見込みの少なかったがん患者が、吉本興行かなにかのお笑いビデオを見るようにしたら免疫力が向上して、ついにはがんが治ってしまったなどという話を何かの本で読んだこともあります。
こういった主張や事実をもとに笑いが何であるかを考えるに当たっては、笑いを2種類に分ける必要があるかもしれません。
一つはいわゆる面白おかしく感じたりした時の笑い。
いまひとつは、例えば赤ちゃんの可愛いしぐさなどを見た時の柔らかな笑みや、何か困っている人を助けてあげることができた時にふとあふれ出るにこやかな笑み。
ニーチェが言ってるのはおそらく前者のことでしょう。
がん治療に関しても前者でしょう。
面白おかしい笑いについては、
肯定派、否定派いずれも存在するでしょう。
しかし
後者の笑いについては、あんまり否定する人はいなさそうです。菩薩がその顔面にたたえる微笑なんてのもこちらに含まれるでしょうから。
議論が分かれるとしたら前者の方と思われます。
多少なりとも被害妄想、関係妄想のある方にとっては、街中やテレビ・ラジオで聞く「ギャハハ笑い」を相当苦痛に感じることがありえますが、これは、前者の「笑い」には人を馬鹿にして笑う「笑い」が含まれるからだと思います。ただ単に面白おかしくて笑う「笑い」と区別がつきません。
そういう意味では、もしかすると前者の「笑い」は、
相当に厳密に考えれば、本当の本当は否定されるべきものなのかもしれません。
しかし私流に言うならば、
結局「笑い」の対象となる何かを愛したり可愛がったりする心があって笑うのであれば、全面的に肯定してよい、となります。
要はどんな感情が基本となっているかだと思います。
その意味では、
名言として取り上げたものの、
否定派のニーチェとはやや距離を置かざるを得ません。
あー。
また長々と書いてしまった。
こんな長い文章、誰も読んでくれないような気がしますが、しょうがないかな…。
短く上手にまとめるって難しいですね。
拙い文章をここまで読んでくださって
ありがとうございました。
生まれて1~2ヶ月だと泣いたり、「アー」とか「エー」とか言ったりすることはあっても、笑うということはそんなにないようであります。
ところが4ヶ月経とうとしている近頃は、もう笑ったりするという。
人の感情は喜怒哀楽などと言われるけれど、
仮に「泣くこと」を「哀」とするならば、
笑うことは「楽」に当たるでしょうか。
そうすると、まず「哀」が始まり、
次に「楽」が続き、
しばらく経って「怒」や「喜」となりましょうか。
これだけ聞くと別になんということもないのですが、
次にニーチェの言葉を聞いてほしい。
☆☆☆
人間だけがこの世で苦しむ。
そこで、笑いを発明せざるを得なかった。
ニーチェ「権力への意志」より
☆☆☆
これをごく単純に当てはめて、
かつ、やや誇張しますと、
赤ん坊は生まれてきてすぐに「哀」を体験し、そして泣く。そこでそれを乗り越えるために本能的に「楽」を作り出そうとし、笑う。
考えすぎですね。
ただ、分割を始めた受精卵が母親のお腹の中で人間の形になっていく過程が、何億年という生物の進化の歴史を象徴的に表現している(つまり似ている)という事実を思い起こすと、
(人類発祥から現在に至る過程で人間が「笑い」を発明したというニーチェの主張が仮に正しいとした場合でありますが、)
太古の昔から現在までの笑いの発明の過程が赤ちゃんの行動の中に象徴的に表現されるということはあり得るかもしれない、とふと思ったりします。
なんにせよ、ニーチェは「笑い」を否定的に捉えているということになりそうです。やむを得ず、仕方なく発明したと主張するわけですから。
現代においては「笑いの効用」などといって、どちらかと言えば肯定的に捉えられていると思います。
治る見込みの少なかったがん患者が、吉本興行かなにかのお笑いビデオを見るようにしたら免疫力が向上して、ついにはがんが治ってしまったなどという話を何かの本で読んだこともあります。
こういった主張や事実をもとに笑いが何であるかを考えるに当たっては、笑いを2種類に分ける必要があるかもしれません。
一つはいわゆる面白おかしく感じたりした時の笑い。
いまひとつは、例えば赤ちゃんの可愛いしぐさなどを見た時の柔らかな笑みや、何か困っている人を助けてあげることができた時にふとあふれ出るにこやかな笑み。
ニーチェが言ってるのはおそらく前者のことでしょう。
がん治療に関しても前者でしょう。
面白おかしい笑いについては、
肯定派、否定派いずれも存在するでしょう。
しかし
後者の笑いについては、あんまり否定する人はいなさそうです。菩薩がその顔面にたたえる微笑なんてのもこちらに含まれるでしょうから。
議論が分かれるとしたら前者の方と思われます。
多少なりとも被害妄想、関係妄想のある方にとっては、街中やテレビ・ラジオで聞く「ギャハハ笑い」を相当苦痛に感じることがありえますが、これは、前者の「笑い」には人を馬鹿にして笑う「笑い」が含まれるからだと思います。ただ単に面白おかしくて笑う「笑い」と区別がつきません。
そういう意味では、もしかすると前者の「笑い」は、
相当に厳密に考えれば、本当の本当は否定されるべきものなのかもしれません。
しかし私流に言うならば、
結局「笑い」の対象となる何かを愛したり可愛がったりする心があって笑うのであれば、全面的に肯定してよい、となります。
要はどんな感情が基本となっているかだと思います。
その意味では、
名言として取り上げたものの、
否定派のニーチェとはやや距離を置かざるを得ません。
あー。
また長々と書いてしまった。
こんな長い文章、誰も読んでくれないような気がしますが、しょうがないかな…。
短く上手にまとめるって難しいですね。
拙い文章をここまで読んでくださって
ありがとうございました。