ニートへの期待
ニートの存在自体を肯定的に捉えている人はかなり少数派のようです。つまり「どうすればニートから抜け出せるか」「どうすればニートの数を減らせるか」というようなテーマで議論が進められていることが多いということです。
なかには、ニートの存在を肯定して社会全体で受け入れていこうという考えの方もいらっしゃるようですが、「一生ニートでもいいじゃないか」とまで主張する方はほとんどいないように思います。
だれがニートの生活を経済的に支えるのかという視点から考えると、それもやむを得ないところです。生活にはお金がかかりますからね。
ニートたちもそんなことは分かっているし、30代の半ばともなれば親が定年になったという方も多いでしょうから、生活費の問題はむしろ切実な問題として常に心にのしかかっているものと思います。
ただ、そのように感じる人というのは、その前提として心の中に、良く生きたい、人並みの生活を送りたい、もっと充実した人生を送りたい、自己実現を果たしたい、という願望があるということであり、そのような願望が薄い人においては、むしろ「なぜ人間は働かなければならないのか?」というやや根源的な問いが起こる場合があると思います。言い換えれば、「なぜ人間は生きなければならないのか?」ということであります。
収入という側面からニートを考える前に、まずこの「労働とは何か?」という問題について少し述べたいと思います。
この問いに対しては既に様々な答え(あるいは答えらしきもの)が世の中に用意されていますが、
欧米などでは、
「労働=人間への罰」という観念があり、これがひとつの答えとなっています。
旧約聖書の創世記第3章17節~19節の、
「あなたは一生苦しんで地から食物を取る。地はあなたのためにいばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ(糧を得て)、ついに土に帰る。」
という箇所が引き合いに出され、
アダムの罪を引き継いでいる我々は労働という苦しみを引き受けなければならない、という風に解釈されるわけです。
その一つの表れとして、
欧米では、日本に比べると、定時に退社するのが原則であり残業をすることも少ないという現実があります。
つまり、労働=人間への罰という観念が心に沁み込んでおり、必要以上に労働することを避けようとする気持ちが働くため、残業などはあまり格好いいことにはならないわけです。
そのような現実を見ると、
欧米等では、労働の意義について迷う人はあまり多くないのかもしれません。正しいかどうかは別にして、一つの明確な答えが一応与えられているわけですから。
やや脱線しますが、
この観念は日本人にはあまりないものであって、この差を認識することは、ニート問題や失業問題を考える上で重要となる場合があります。
失業対策としてのワークシェアリングなどという取り組みがオランダ・ドイツ・フランスなどで行われており(必ずしもうまくいってはいませんが)、日本でもこのワークシェアリングを広めていこうと、政府や日経連などによって検討が進められてきていますが、労働時間を減らすということに対する抵抗感は、欧米よりも格段に強いと予想されます。
「労働=人間への罰」などいう観念があまりなく、どちらかといえば「労働=美徳」という観念が強い日本においては、簡単には根付かないでしょう。
日本においてあまり馴染みのないものだとしても、「労働=人間への罰」、つまり、働くことは人間の負った宿命であってそこから逃れることはできない、という考え方は、働くことの意義に疑問を感じるニートに対しての一つの答えとはなるでしょう。
その他にも様々な「答え」があるとは思われますが、とりあえず割愛します。
さて、ニート問題の本筋に戻りますが…、
というか、また長くなってしまったなぁ…。
続きは、また稿を改めて書きたいと思います。
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